誰かに呼ばれた気がして、目を開けた。
視界に映っているのは、若干悪趣味な柄に覆われた天井だった。自分が間借りしている寝室に違いない。
天井を見上げているということは、寝台に寝かされているのだろう。
激痛に襲われて倒れた記憶はある。つまり、誰かが見つけてくれた、ということだろうか。
徐々に状況を把握していくうちに、ずきりと内腑が痛む。鈍痛に、おもわず呻いた。
胃がとうとういかれたのだろう。思い当たる節は、五万とあった。
「アーリク先生」
視界の外から声がした。声のほうに視線を移せば、そこにはポストーチがいた。
額に包帯を巻いている。普段の自分であればまずそれについて尋ねるところだったが、痛みにしばらく返事ができなかった。
「……ポストーチ」
一息おいて、声は出た。腹に力が入らないのでか細く、胃酸で焼けた喉のせいで掠れている。酷い声だ。
ポストーチはふうっと息を吐いて、私に微笑んだ。
「目が覚めたんですね、よかった……でも、痛い、ですか?」
「大丈夫だ」
説得力はないだろう。人を安心させるための笑顔を、残念ながら自分は有していない。
上体を起こそうとして軽く頭をもたげた途端、視界がぐらぐらと揺らいだ。貧血症状を起こしている。おもった以上に吐血したようだった。
無駄な抵抗はやめて、大人しく自分の状態を確認することにする。背中側に痛みはない。ほかの内臓は炎症を起こしていないようだ。
「どこが、痛いですか?」
「腹部に鈍痛。たぶん十二指腸ではなく、胃粘膜のほうだ。ほかの内臓は特に異常ない、と思う。
あと、吐血のせいで貧血症状があるな。しばらく動けそうにない。意識ははっきりしている。」
いつものように症状を告げる。自分のことでも、それなりに分析はできるものだった。
ポストーチは頷き、私を覗き込んできた。笑顔は消えている。だが、泣き顔でもない。いつもの彼女なら、泣きそうになっていてもおかしくないのだが。
「顔色がまだ悪いですね……先生、倒れたときのことわかりますか?」
「突然吐き気がしたと思ったら、血を吐いた。その後、気絶したようだな」
「ミロくんが先生をみつけて、私を呼んでから3時間経過してます。その後、制酸のお薬で処置をしました。その後は吐血をしてないです。」
「そうか、正しい処置だ」
そう告げてから、はっとする。
「もしかして、君はずっとここにいたのか?ミロに呼ばれてからずっと?」
「はい」
にこり、と彼女が頷く。頭を抱えたくなったが、あいにく動けなかった。
「……すまない、いらん面倒をかけた」
医者の不養生にもほどがある。のたれ死んだというなら一向にかまわないが、こうして人に迷惑をかけたというのは、我ながら恥ずかしい。
「なにいってるんですか!私お医者さんですから!患者さんがいたら、お世話するのは当然です」
ぶんぶんと頭を横に振り、ポストーチが否定する。いつものやわらかい笑顔を向けられ、私は何もいえなかった。
よくみれば、ポストーチの目が赤い。どうしたのだろうか。額の包帯のことも気になる。
……そして何より気になるのは、妙にしっかりした彼女の態度だ。
こういっては失礼だが、隻眼の患者が血をたらしながら天幕に駆け込んでくる度蒼白になっていた女性とはおもえないほど、いまのポストーチは冷静だった。
どうしたんだ、という一言がいえないうちに、ポストーチのほうが口を開いた。
「ほんとは」
「ん?」
「ほんとは、先生が調子悪そうだな、って、前から思ってたんです、私。」
「ああ……」
たしかに、ここ最近は体調を崩すことが多かった。酷く暑い地域を通ってきたせいだろうか。
「それなのに気づけなくて……」
とたん、ポストーチはしゅんと肩を落とした。
「君に落ち度はない。いつものことだと、体調不良を放っておいたのは私だ」
「でも」
「ポストーチ」
ぐ、っと彼女は言葉に詰まったが、思いついたようにすぐに口を開いた。
「……じゃあ、これを機に、あらためてくださいね?煙草」
「……そう、だな」
私の一応の答えを聞くと、彼女はまたふんわりと笑った。してやられた。
「さて、と」
ふいにポストーチが立ち上がった。
「それじゃ、ミロ君に伝えてきますね。お水はここにおいていくので、飲みたくなったら飲んでください。
お薬の時間にまた来るから、ちゃんと寝ててくださいね」
「君にこれ以上世話はかけられない、私は大丈夫だ」
「だめです!アーリクさんは今、先生の患者さんなんですからねー!?ちゃんと安静にしていてください!!」
いつも彼女が自分に使う敬称が取り外されていることに気づく。こうなったら、この女性は梃子でも動かせないだろう。
「それじゃ、寝るんですよー!?」
出て行こうとしたポストーチをおもわず呼び止める。
「ポストーチ」
「はい?」
「ありがとう」
返事は、いつもの笑顔だった。
扉がぱたん、と閉まる。
一瞬の間をおいて、ばたばたと走り去る音がした。
貧血のせいか、視界がかすんだ。しゃべり過ぎたな。制酸剤を飲んだとしても、胃は未だ刺すように痛い。
結局、額の包帯のことは聞けなかった。ぶつけでもしたのだろうか、もし裂傷だったら、ちゃんと処置はしたのだろうか?
女性の顔に傷が残ってはまずいだろう。みてやるんだった。
……いや、いまの自分は、ポストーチ先生の患者、だったな。
医者のいうことを聞いて、私はまた目を閉じた。
じくじくとした痛みのおかげで、悪夢すらみれないだろうことが、せめてもの救いだった。