久々に届いた次兄からの手紙は、いつもどおりの短いものだった。
その蚯蚓のような悪筆を時間をかけてなんとか解読し、アイシャは顔を上げた。
「まったく、ミロ兄様ったら」
思わず独語した呟きがきこえたのか、長いこと黙々と何かを書き散らしていた長兄が声を発した。
「なにか楽しいことは書いてあったか?」
問いながらも、兄の手は整然と何かを書き記している。仕事なのか趣味なのか、それはアイシャにはわからない。
「兄さまも自分で読んだら?」
差し出した紙を、イツァークは一瞥しようともしなかった。
「あいにく、そこには俺の知る文字は書いていない」
アイシャは苦笑せずにいられなかった。たしかにこの字では、長兄が皮肉るのも無理がない。
「いつもどおりのことしか書いてないわよ。まったく、いつもいつも忘れたころに手紙をかいたらいいとおもってるのね」
「あれが筆不精なのはしかたないだろう」
「それはそうだけど」
次兄が町を出て行ってからもう3年以上が経つ。そのころまだ母体にいたイツァークの娘もすっかり大きくなって、日々父親に登って遊んでいる。
アイシャは、もう一度手紙を読み返した。そして思わず、ふうと溜息を漏らした。
「どうした」
とうとうイツァークは手を止めて、顔を上げた。
「……兄様が心配」
「なにを心配することがある?」
「3年もあってないんだもの、心配にもなるわよ」
「俺はならんぞ。現にそうして手紙は送ってきている」
イツァークは、本当に欠片も心配していないようだ。アイシャに向かって、何を言っている、という視線を向けてくる。
「文字じゃやっぱりわからないじゃない。ああ、ルフでも持たせて送り出すべきだったのよ」
何故当時、そういうことを考えなかったのだろうか。
「……心配することはない、あの馬鹿がそう簡単に死ぬか。」
「もう、死ぬだなんて飛躍しないで!それこそ一大事じゃない…ああ、やっぱり私、一度様子を見に行きたいな」
その一言は、兄にとってまったくの予想外だったらしい。ぴくん、と彼の眉が跳ねた。
「お前が?ミロの奴がいまどこにいるか、確証もないんだぞ」
アイシャは、彼が途端不機嫌になったのを感じ取ったが、それでも言葉を続けずにはいられなかった。
「この前の手紙だと、なんだか大きな隊商に加わったって書いてあったわ。今回もそんなこと書いてきてるし、しばらくはこの隊商にいるんじゃないかしら」
「で、お前はどうやってその隊商の現在地を探す気なんだ」
「それは…」
「手紙を差し出した街には、既にいないだろう」
兄の言い分はもっともである。手紙が届くまでには、かなりの日数がかかっているのだから。
「そうかもしれないけど、香煙の花なら大きな商業都市よ。滞在期間も長そうじゃない。手紙によると相当大規模な隊商みたいだし、足取りも追えないかしら」
それでも食い下がる妹に、イツァークは溜息交じりにならざるを得なかった。
「アイシャ、そんなにあいつが心配か?」
「もちろんよ」
まったく、家族のこととなると、この子は本当に聞かない。イツァークはすぐにひとつの決心をして、軽く頷いた。
「では、おれが行こう」
「は?」
ひっくり返った声が、妹の口から洩れた。
「可愛い妹が、馬鹿な愚弟のせいで心痛めているのは、みていられんからな」
「え、いや、兄様、私が、行きたいんですけど」
「お前に行かせられるわけがないだろう。大体、隊商に合流するまでの道のりは安全とは言えんぞ。」
アイシャには言い返せない。たしかに若い女性の一人旅には無理があるし、父母もかなり心配をする。説得は、兄の力無しでは不可能だろう。つまり兄がこういう以上、アイシャが旅に出るという選択肢は真っ向から打ち消された。
彼女は青くなった。長兄の、次兄に対する容赦の無さはよく知っている。
「兄様はお仕事もあるじゃないの、それこそ旅に出ている暇なんて無いでしょう」
「暇は作る。お前のためだ、どうということは無い」
さらりと言い返され、アイシャはまた言葉を失った。この兄のことだ、すでに代理を立てる段取りを考えているのだろう。
「兄様にだって、隊商の現在地、わからないじゃない」
「なんとかする」
イツァークがいつもの不敵な笑みをみせる。
なんとかなる、ではなくなんとかする、というところがこの兄らしい。そして恐ろしいのは、この男ならなんとかしてしまうだろう、ということだった。
「本気…?」
「お前が、あの馬鹿が心配だといったんだろう」
そういわれると、彼女としては反論できない。次兄の近況を知りたいのことには変わらないのだ。
「なに、それほど長くは留守にせんさ、赤ん坊がうまれる前には帰ってくる。親父殿もそれなら文句はいわんだろう」
彼の妻はつい最近3人目の妊娠に気付いたばかりである。
「そ、そうよ兄様、姉様放っていっちゃだめよ、怒られるわよ」
「だから、産まれるまえには帰ってくるさ。お前に頼まれたといえば、エスラも納得する」
「私は兄様に頼んだんじゃなくて……」
既にイツァークは聞く耳を持たない。
ああ、ミロ兄様ごめんなさい……
アイシャは次兄にふりかかるであろう災難を想像し、先程よりもずっと深いため息をつくのだった。